2014年1月29日水曜日

2001.2-2002.4

黒澤公人の世界から   その3

(その1 1998.4 - 1999.12)
(その2 1999.12 - 2001.2 )
(その3 2001.2 - 2002.4)
(その4 2002.4 - Now)

目次

若さというエネルギー
ユートピア(平和な国)を創るために
平和の鐘へ:あなたの力
あなたは、なにか努力したことがあるのかね。
たくさんの宝物たちへ
心の耳を澄ませ
負けてはならない
無という豊かな存在へ
平和の鐘へ
沈黙の向こうから : 御手に触れて
(3/24/2002) (知っているつもり イエスキリストより)
あなたは聖(ひじり) (3/15/2002) (ライ患者の故郷への帰郷のテレビ番組から)
21世紀を平和な社会にしよう。
平和を求めるあなたへ
ユートピア(平和の国)を創ろう
ユートピア (平和な国)の建設をめざして
人生の不思議に出会った時
人生の不思議を求める人へ
新しい生命力に
21世紀になりました。
手ぶらで帰すわけにはいかない。(南極越冬隊から)(2/27/2001)
21世紀を創る。(2/7/2001)





若さというエネルギー

ファミリーレストランで、家族で食事をした。
隣の席に、女子高校生の達がおしゃべりをしていた。
そのうるさいこと。
でも、人間はあんなにもエネルギーを出しているのかとも思った.
あんなの大きな声、笑い声をだして、生きていける存在でもあるのか。
よその席から、苦情が届いたのだろう、店員が何度か、注意しにやってきた。
しかし、人間は、あれほどまでのエネルギーをもった存在なのだ。
何人かで会話しているだけなのにである。
会話ということに託されるエネルギーもすごいものがあるのだ。
そして、そのようなエネルギーをどのように使うべきか、それを考える場がないのかも
しれない。
きっと、すばらしいエネルギーに違いなのだが、それをいろんな方法で、豊かに使う方法を
訓練することができたら、すごいことかもしれない。
                (4/21/2002 ファミリーレストランにて)



ユートピア(平和な国)を創るために

誰かにバカにされたとき、反発する心が動く.
私の内に、その出来事を、そのようにしか、捉えられない.
しかし、その出来事を、静かに受け止めることだって、できるかもしれない。
私の心がきれいならば.

失敗に気付いた時、穴の中に落ちていくような、気分に苛まれ、
逃げ出したくなってしまうこともある。
しかし、失敗に気付いたら、冷静に分析し、すばやく対策を打つことだってできるかもしれない。

心がきれいになれば、出来事を、しっかり、踏み止めて、主導的に生きることができるだろう。
しかし、もし、人間全員がそう生きることができるようになったら、不安も、失敗もしなくなるのだろうか。

どうも、そんなことはないような気がする。
未知なる未来に突き進むのが挑戦者たる、人間の使命。神のごとき、自由意志と、創造の力をもつ、人間といえども、この3次元世界に生きるのは、多くの制約と重しつけて生きるようなもの。だから、人は、強く生きなければならない。より、強い自分になるために。

しかし、この3次元の人生がすべてなら、そうする必要はないのかもしれない。

人間は挑戦者である。
そして、挑戦者はいつも、不可能に挑むのである.
だれが、あんなピラミットをつろうといったのだろう.クレーン車も、ブルトーザーもないのに。
だれが、あんな馬鹿でかい奈良の大仏を作ろうと言い出しのだろう.
だれが、月に人間が行って帰れるといったのだろう。

そして、たくさんの失敗、挫折、悲しみ、苦しみを作り出した。しかし、それを、乗り越えて、新しい時代を切り開くため。無限への挑戦を諦められないから。
それば、父なる神へのあこがれを、無視することはできないから。

そして、最大の思慕は、平和な社会をつくること。
貧困、暴力、公害、圧制を乗り越えて、今、不可能に思えるそのことに、限りない挑戦の歴史を築くこと。
人間のすべての原動力 父への思慕なのだと思う.

                                by kimito (3/1/2002)
                               平和の鐘の到着に寄せて

平和の鐘へ:あなたの力

ICUのチャペルにつけられる チャペルの鐘
その鐘の名は、平和の鐘
多くの人が、平和を願って募金をしてくれた。
そして、多くの人のメッセージが寄せられた。
そんな中に、”こんな鐘を造ったところで、平和がくるもんか”
そんなメッセージを見つけた.
その人のありのままのメッセージなのだと思う。
こんな時代だから、ますます、そう思えてしまうのかもしれない。

しかし、平和の鐘が、今、ここにあることによって、たくさん人が平和へのメッセージを
言葉にし、メッセージに書いた。
その力が、この平和の鐘にはある。
日常の中,流されながら、生活している現代社会にあって、
平和を言葉にし、思い願う、行為を引き出した そんな力が、この鐘がある。
この力こそが、平和の始まり。
確かに、この鐘があるだけでは、平和は生まれない。
しかし、この鐘は、人間の心に、存在する平和の希求を呼び起こしている。
そして、いつか、その人にも、この鐘を思い浮かべて、平和を願い、祈るときが
くるのかもしれない。その時は、誰にも知られることもない、記録されることもないかも
しれない、”奇跡”の時。
そんな力が”平和の鐘”にはある。


あなたは何か努力したことがあるのかね

こんな声がする。
あなたは、何か努力したことがあるのかね。
たしかに、仕事をしているかもしれない。
しかし、それは、努力しているのだろうか.

努力するとはなんだろう。
日常の繰り返される行動を、ただ行うことは、努力していることなのだろうか。
ただ、生活しているだけでは、努力していることにはならないのかもしれない。
努力とはなんだろう。

ほんとうに努力していきるとはどんなことだろう。
世界は、さまざまな混乱に満ちている。
赤字国債を出すことは、決して望ましいことではないとみんなは知りつつ、どうすることも出来ずにいる。
狂牛病が起こるかもしれないと思いつつも制度を変えることが出来なかった。
フロンが、オゾン層を破壊し、温暖化に影響を与えるを知りつつも、廃棄冷蔵庫、廃棄クーラーからは、次から次へと宮中に放出される。
次から次へと生産される携帯電話、パソコン、自動車、それらも、短期間の内に、寿命を終え、廃棄物と化す.
海に浮かぶビニールを、海亀は、海草を間違えてたえ、海亀の胃袋は、ビニールで溢れている。
今日もたくさんの人達が、飢えで死んでいく。
世界は、荒れているのに、傍観している現実。
享楽に流される現実。
地球は病んでいるのに。

内なる声が聞こえる。
あなたは何か努力したことがあるのかね。



たくさんの宝物たちへ

始めはたくさんの宝があった。
宝は地に満ち、溢れていた。

必要があり、意味があり、その存在は尊ばれ、宝となった。
それらは、すべて光輝く宝であった.

時を経て、必要も、意味も忘れ去られ、
チリが積もり、埃に覆われ、輝かしい歴史にも、
悲しい出来事が重なり、いつしか、輝きを失った。
そして、罵倒されるものとなった。

罵倒されるたびに、文句を言われるたびに、
一つ一つの栄光は、失われ、力は失われた。
いのちは、失われ、ただ、そこには、のろのろと動く
形だけの組織が残った。

よみがえれ、宝たち。
すべてのものが、力をもち、輝きをもつために。

悲しい出来事も、より、本質を見つけるためであったのかも
しれない。
すべてを無秩序へと運ぶエントロピーも日々、新たな光を産み出す
根源でもあった。
”時”の流れとは、生命と活動を生み出す神の愛であった。
生命の力とは”時”あった。

蘇れ、宝たち。
見失われた本質の意味を探り当てるなら、
自らの中より、光が溢れ出す.
輝きを取り戻す。

罵倒する声もむなしくなり、
文句の声も、自らを励ます声と替わる。

すべては力となり、前進するエネルギーとなる。

始めは、宝があった。
意味をもち、必然があった。
輝きを取り戻すための
”時”を待たれている。
             (by kimito 3/13/2002)


心の耳を澄ませ

かの方の声が聞こえる
かの方は、いつも、あなたに話かけている。
がんばるのよ。
がんばりなさい。
ほんとうにしたいことはなんなのか、よく考えなさい。
つらくても、がんばりなさい。

心の耳を澄ませ.
太陽の声が聞こえる。
春になりましたよ。
夏になったのさ。
秋になったわよ。
冬が着ましたよ。
そして、あなたが成長するために必要なものは、
すべて、あなたに届けられたのよ。
人生を成長することが出来ましたか?

心の耳を澄ませ.
あらゆるものの声が聞こえる。
パン屋さんには、パン生地の声が
コンピュータには、コンピュータの声が
遠くにいても、お母さんには、赤ちゃんの声が。

しかし、心の内にはたくさんの声が鳴り響く。
自らの欲望のどなり声を押さえ
自らのひがみのわめき声を押さえ
自らの失望に耳を塞ぐのをやめ、

心の耳を澄ませ
  すべては息づき
  すべては輝いている。
  すべては、あなたを励ましている。
         (by kimito 3/15/2002)




負けてはならない。

人を悪く言う心に負けてはならない。
怠ける心に負けてはならない。
怠惰な心に負けてはならない。

人生を支えるために、
時を過ごすために、
問題から眼をそらしてはならない。

この世界に生きるには
自分の本当の願いを生きなければならない。
恐れる心、慌てる心、嫉妬の心に惑わされてはならない。

この世界に、自己を正当化することは、本来できないもの。
それでも、心は、自己正当化を求めて、ひたすらに、走りまわる。

大海を行く船は、嵐や風、波にもまれても、
ただ一つ、北の夜空の星を求めて
自らの行く先を定めるしかないのだ。

自分の本当の願いに耳をすませ。
人を罵ろとその声はいうのだろうか。
自分の身を救うために、相手を貶めてよいのだろうか。

それは悪魔のささやき。
自らの人生を悪魔に引き渡すこと。

負けてはならない。
もう、自然のように交わされてきた
悪魔のささやきに、耳を貸してはならない。

あなたは、いつも悪魔のささやきに耳を貸しつづけてきたのだ。
あたかも、それが、自分の人生を生きるかのように。
しかし、
あなたは、目覚めていなければならない。

ただ、歩め。
投げ出したくなる心をなだめ、
目的とはなんだったのかと、確認しながら。
                    (by kimito 4/1/2002)


無という豊かな存在へ : 全ては「無」から創造された。

ハリーポッターのような小説は、どのように書かれたのだろう。手塚治虫などの奇想天外のマンガなど、どうして、こんなことが思いつくのだろうかと思いつつ、つい、引き込まれて読んでしまう。そして、その世界に思いを馳せ、その世界に生きることができる。
この地上の現実の世界とは、ちょっと、違う雰囲気をもった世界が、実にたくさん、言葉や、劇、映画などで、この世界に提示されてきた。
人類は、宇宙の成り立ちを、研究している。宇宙の誕生や、宇宙の膨張、太陽の終わりの時や、何十億年後には、地球も生命の住むことのできない星となること などを、予想している。しかし、巨大な望遠鏡や宇宙観測のデータを元にしても、宇宙の構造をつかむことは難しい。地球の世界観の3次元的な説明で、宇宙を 説明できないのは、すでに明白である。宇宙の構造や成り立ちを研究をすればするほど、複雑な宇宙の構造が提案されている。
とても、日常の世界にいきる我々には、到底理解できない理論が次から次に展開されている。
そのことを考えると、ハリーポッターや手塚治虫ワールドやウルトラマンワールドが、奇想天外な話ではないのかもしれない。私たちは、大宇宙からみれば、何も知らないと言える。
私たちが、誕生を無からスタートして、教育や家庭から学んだことが、その人生の知識の全てという考え方は、やはりちがうのかもしれない。
大宇宙を生命的な側面を感じる神秘を感じることもあるかもしれない。生命という不思議な次元の世界は、知識とかいう限られた世界を越えて、無限の大宇宙の生命の次元の世界に思いを馳せ、共感し、途方もないような世界にも、つながることもできるのかもしれない。
それが、創造という不思議な力なのかもしれない。
考えることや、思いを馳せるそのすべてが、多様な世界を創造しているのかもしれない。
それが、創造という不思議な力をもち、物理的、科学的な考え方と途方も無く違う何かによって、世界という言葉で表現できない何かによって、”パリ-ポッターワールド”や”手塚治虫ワールド"が、創造されていたのかもしれない。
その人の”ワールド”が、なにか、"A 世界の創造”、”The 世界の創造”が、人生とともに”創造”されているのかもしれない。
なにか、"そのワールド”という実態のあるような、無いような、そして、その人の死をもって消滅してしまいそうな、なにかが、ある。その人の死をもってしても、消滅することのない、何かがあるのかもしれない。
時間という不思議なことも考えて見る必要もあるだろうし、次元の問題、エネルギーの問題、たくさんの要素を検討しなければならないだろうが、”眼にみえる世界”のむこうに何かあるのは、確かなのかもしれない。
それはとても、とても 豊かな ”無” の存在があるからなのだろう。
そして”無”とは、どのように定義されるべき 言葉なのか 考えてみる必要があるのかもしれない。

(by kimito 3/31/2002)

平和の鐘へ

あなたは教会の鐘。

教会の鐘と言うと、こんなことを思い起こさせるね。
教会の鐘の音は、町々に、村々に、その響きを伝え、人々の心を、生活を支えてきた。
町々には、自慢の教会と鐘があった。とうちゃんや、じいちゃんが、汗水ながして、樹を切って、石を運んで、作った誰にも真似の出来ない、たった一つの教会 があった。それは、産湯のごとく、自分の誕生を祝い、洗礼のとき、ミサのとき、クリスマスの時、結婚の時、そして、死の時を、いつも、人生の時に奏でてく れた音。
その音が、旅から帰る旅人に故郷を呼び起こす音。


あなたは、どうして、遠い異国で、うまれて、この地にきたの?。
そう、あなたの誕生には、長いお話があるの。
57年前に、世界中を襲い、何百万、何千万の人達の命を傷つけて、家々を壊し、文明の粋を賭けて、互いに傷つけ合う戦争があった。
それが終わって、平和の音を、全世界に響かせたいと願った人がいた。
その人は、もう既に死んでしまったけれど、そのことを覚えていた人達がいた。
その人達の呼びかけで、あなたは、この世に生を受けた。
あなたが、平和の音を奏でるために、生まれだした。

平和の音って、どんな音なんだろう。
澄んだ、カラン、コロンの音かしら。
それとも、力強い コンカラガンの音かしら。
それとも、清らかなカロンコロンの音かしら。
どんな音がするんだろう。

きっと、平和な音は、人の心の奥に、どこまでも、どこまでも、響いていく音。
傲慢になった人の心を揺り動かし、青空のように生きることを思い出させる音。
弱気になった心に、さくらの花のように、思いきり咲いてごらんを呼びかける音。
いやみしか言えなくなった心を、静かに、人の声に耳を傾けることを思い出させる音。

平和の鐘よ。
いつまでの、平和の音を響かせよ。

あなたは、まだ、この世に生を受けたばかりだ。
この世の哀しみ、苦しみ、理不尽さを、たくさん見るだろう。
そして、また、多くの愛や友情をみるだろう。

あなたは、平和の世界にやってきたのではない。
あなたは、この地上に平和をつくるためにやってきたのだ。
ほんの57年前、世界は焼け爛れていたのだ。
その時、平和を呼び覚ますために、あなたは、その願いをもって、召し出されのだ。
あなたを作っている金属は、岩に眠る鉱物でいることもできたのかもしれない。
あなたの兄弟達は、飛行機になって、大空を飛んでいるのかもしれない。
もしかすると、人を殺す兵器になっているのかもしれない。
しかし、あなたは、教会の鐘になった。

それは、あなたが、平和をつくる使命、伝道者になったということ。

清く生きよ。
簡素に生きよ。
そして、強く生きよ。

哀しみを乗り越えて、苦しみを乗り越えて、100年先まで、200年先まで、1000年先まで
人間が平和を求める存在であることを述べ伝えよ。
21世紀がどのような時になるのか、その目で見、語り伝えよ。

そして、誕生から未来への時の重さをもって、”人間とはいかなるものなのか”を証すものとなれ。

                               (by kimito 3/7/2002 平和の鐘の到着に寄せて。)


沈黙の向こうから : 御手に触れて

眼の前に差し出された、御手に静かに触れた。
柔らかく、暖かかった。
日常の何気ない世界では、あまり気にならない生き方も
陽の光の前に出来る自分の影に怯え
決して、握り返すことの出来なかった御手に触れた

求めよ、さらば、与えられん。
叩けよ、さらば、開かれん。
天からの声が聞こえる。

私は、あなたに応えたい。
たくさんの声に応えたい。
あなたの可能性に呼びかけたい。
あなたが、こう生きたいを言うのなら、力の限り応援しよう。

しかし、あなたは、今、自分の言葉を持たない.
だから、私は、あなたに、何も伝えることができない。
私の内なるこの思いをあなたに伝えることができない。
あなたが、私の手をそっと、触れたから、私も、そっと触れただけ。

私に語る”あなたの言葉”を持ちなさい。
そうすれば、私もあなたに語ろう。
あなたが、私の手を握り締めるなら、私もあなたの手を力を込めて握り返すだろう。

御手を握り締めるものが、握り返される。
語りかけるものが、語り返される。

御手は、いつもあなたの前に差し出されている。
あなたが、怠けようとするときも。
怒りに、傲慢になろうとするときも。
言葉は、いつも、語りかけられる。

静かに聖書を開く時、
静かに自分の人生を振り返る時
御手が、差し伸べられていたことを知る。
御声が語りかけていたことを知る。
その時、陽の光を受けて、怠けることの罪を知るだろう.
その時、慈悲の心に触れて、怒ることの怖さを知るだろう.
その時、愛の心に触れて、傲慢の恐ろしさを知るだろう.
だからこそ、
正しく生きよ。元気に生きよ。勇気を持って生きよ。
全ては神の御手に包まれている。

私は、あなたにたくさんのことを伝えたい。
私は、あなたにたくさんの思いを伝えたい。
しかし、その時は、
私の手を握り締めるその時だけ。
私に向かって語りかけるその時だけ。




(3/24/2002 知っているつもり イエスキリストを見ながら、去来したイメージから)


あなたは聖(ひじり)

少年のとき、ふるさとの地を出て
閉ざされた診療所にやってきた。
その当時、人間は、その病と闘う術を知らず、
あなたの病は、あなたの体を腐らせ、溶かした。
あなたは、眼もなくなり、鼻もなくなり、手から指もなくなった。
はっきり語る声も失い、かすかな声のみが残った。
人生のすべてをあなたは失った。
自由に外を歩くこともできず、あなたは、なにもできなくなった。
あなたの人生は、この小さな診療所に閉じ込められ、
あなたの人生のすべては奪わられた。
あなたの自由になるものは何一つなかった。

しかし、あなたに残ったのは、清らかな魂。
自らの人生を怨むのでもなく、嘆くのでもなく
あなたの心はいつもふるさとの津軽に思いを馳せる。
楽しかった少年のころの思い出。

父が少年に言った。
「この病気がおまえの仕事だ」

その少年も数十年の月日をへて、老人となった。
家族もなく、生まれたときの名前も変え、他の人生として
生きた。
しかし、そんなあなたにも素敵な娘ができたのですね。

あなたは、少年の心をもった、詩人になった。
詩しか書けない詩人になった。
その詩さえ、自らの手で書くこともできず、
他の人に書いてもらうことでようやく完成する。
その書かれた文字を見ることもできない。
あなたの心の内にふつふつと沸き上がる言葉を地上に残す。
あなたは、魂の詩人。

あなたの顔は、醜く恐ろしげだ。
あなたが町をあるけば、多くの人は恐れ、わめき出すに違いない。
人間じゃないと言い出すに違いない。
しかし、あなたは、笑って、それを受け止めるかもしれない。
そうなんだ。これが、ライという病気。
これが、私の仕事。
父の語った言葉が、あなたの人生のすべてを支えてきた。

あなたは、聖。
魂の証人(あかしびと)
どんな時も神様の手を放さなかった人。


(by kimito ライ病患者の方が、ふるさとの津軽に訪れたという

テレビ番組をみて。)



21世紀を平和な社会にしよう。

 テロ、環境汚染、さまざまな問題を抱える、現在の地球。
 誰かが、この地球を平和な社会につくってくれるのだろうか。
 政治家がしてくれるのでしょうか。
 大企業がしてくれるのでしょうか。
 経済大国がしてくれるのでしょうか。

 この地球を、緑豊かなこの地球を、誰が、守るのでしょうか。

 21世紀の一人一人の人生を豊かなものにしよう。
 こうなってしまったのは、誰々さんのせいだ。
 こんなはずじゃなったのに。
 困るよ。なんとかしてくださいよ。
 そんな言葉が次から次へ湧きあがる心を、持て余しながら。
 私の人生の平和のために、誰かが、なんとかしてください。
 でも、おせっかいはいらない。

 それでも、人間は、調和を希求し、真理を希求する。
 心の内に、大自然に感動し、勇気ある行動を賞賛し、やさしさや、励まし、回りの人が元気であってほしいと願う、"こころ"が存在する。
 豊かな人生を、送らせないように、何かが仕組んでいるのかもしれない。
 本当は、人間は素晴らしいのに、すがすがしく生きることを、やめさせる力が働いているかのようですね。
 それは、重力という力だろうか。秩序をバラバラにするエントロピーの働きだろうか。
 しかし、生命の力は、土の中の種を、1000年の月日をかけて、天まで届く、巨木をそだてあげる。1つの卵を、何千kmにおよぶ、大陸縦断、大海横断する鳥に育てる。
 金も力も無いものが、フランスを救い、インドを独立させる。仏教の経典を地の果て、海の果てまで取りに行かせる。世界の隅々まで、聖書を広げる、生命の力。


 "私が変わります。"この私の内に向けられる、このエネルギーが、こころの内に忘れていた、"生命の力"を、"人生の力"を呼び覚ますのかもしれない。
 生きようとする力強いエネルギーが、混沌の海を突き破り、調和への道を切り開くのかもしれない。
 1000年の巨木は、1年とて、同じ形であったことはなく、1000年の月日、自らを変えつづけてきた。1000kmを飛ぶ鳥は、始めは、歩くことも餌も取り行くこともできず、親鳥に、餌を運んでもらうしか出来なかった。
 "私が変わります"は、日々体が成長していくように、魂が成長するということを意識しようということなのかもしれない。
 魂が、天に届く巨木のように逞しく、地の果てまで飛んで行ける鳥のように、自由に生きる可能性を、魂の生命力はもっている。
 ただ、無自覚に時をすごせは、愚痴や、不満、怒りに覆われてしまう。
 だから、それらを押し止め、魂を鍛え、成長させたら、どんなに素晴らしい人生を切り開くことができるのだろう。


平和を求めるあなたへ

 戦争を産み出すものは、人の心だとよく言われます。平和を生み出すのも人の心です。
なぜ、ビンラビンは、テロを行い、ブッシュは、報復攻撃をおこなうのでしょうか。それ以外の選択は、考えられないのでしょうか。
 むずかしい問題ですね。人は、家族や愛するものを殺されると、冷静ではいられなくなりますから。
 平和は大切だと誰かが言っても、自分の財産や家族を失わなければならないとしたら、平和を選択するのは、難しくなります。もし、戦争することによって、巨万の富が手に入るとしたら、それをやめようとするのは、難しいかもしれません。
 平和を本当に支えるのは、そのような現実にあって、尚、平和を守ると言いきれる人の上にしか作り上げることはできないのかもしれません。
 ガンジーが、インドの独立を考える前に、たくさんの人がインドにはいました。しかし、たった一人の言動によって、インドは、独立するきっかけを得たのです。誰かが、命をかけて、それをおこなうならば。
 そして、ガンジーは、暗殺されました。いままでに、平和を唱えたなんと、多くの人達が殺されていったのかと思います。

 私たちの中には、その平和を支える不動の心はないのでしょうか。
きっと、あるはずなのに、テレビが、ゲームが、常識が、資本主義や快楽を求める思いが、それらを見つけることをむずかしくしています。それでも、平和を希 求しそうな教育や経済、文明、文化の中、良識の中、それらを捜しても、なかなか、その答えを見つからないのかもしれません。
 その答えは、一人一人の心の中でしか見つけることはできないからです。それを見つけることはできるのでしょうか。見つける方法はあるのでしょうか。
 ある人は見つけられるかもしれません。しかし、見つけられてもそれを伝えるのは、たいへんなことです。しかも、家族の悲運や誘惑の世界にあって、その心を守り抜くのはたいへんです。
 しかし、それを求めるならば、必ず、それを見つけ出すことができます。
それが、人間の力だからです。
 本当に平和を求める必要や理由があるのでしょうか。国家を背負い、民族を背負い、家族を背負い、平和を希求するために、何をするべきなのか、その明白な答えは、やはり、いつも、大きな悩み末の答えでしかないのかもしれません。
 誰もが、その問題に切実に考え、苦しくても、前向きに検討し、解決していく努力の上にしか、平和は築けないのかもしれません。
 そのような努力を、何万人の人達が、何十万人の人達が、努力しても、地球上にある環境問題、貧富の格差、民族間の憎しみの問題、富や名誉への誘惑の問 題、限りない問題の前に、簡単に、地球に平和は来るとは思えません。しかし、人類は、必ず、この問題に、何百年経とうが、何千年経とうが、取り組み続けな ければなりません。
 そして、いつか、その問題を、解決する日がくるに違いありません。いや、人類に手で、産み出さなければなりません。
 
 新年の集いでは、人間一人一人の中に、不動な礎を求め、その上に、平和を築こうと取り組んでいる人達の存在をみることができると思います。
 そして、たいへんなことだけど、そう生きてみようじゃないかと、言っているのです。

 良心や真心をもって、生きることを、誰も知らないし、そう生きれるなんて、だれも信じていないようなことを、本気で生きてみようといっているのです。
 もし、良心に添って、生きるならば。それが、私が変わります なのかもしれません。


ユートピア(平和の国)を創ろう

それは、単純なこと。
単純だけで、簡単じゃない。
単純だから、難しい。

世界中の人が、 「そんなことはイヤだね」と絶対言わなくなれば、ユーピア(平和な国)は生まれるに違いない.
面倒なこと、苦手なこと、損なことに、誠実と献身の心ですべての人が立ち向かうこと。
それは、愚かな従順でもなく、判断停止でもなく、あらゆることに前向きに態度で。
きっと、ユーピアの国では、交わされない言葉に違いない.

人が、ただ、そのように生きるだけなら、お金もいらず、すぐにも出来そうなこと。
でも。それが、一番難しい。
それを言わない国はない。
きっと、毎日、何十億回、何百億回の「そんなことイヤだね」の言葉が交わされ、その言葉のかたまりのように、現
在の地球がなっているにちがいない。

不利なこと、苦しいこと、損なことを、イヤだと思うことは、自然な感情だと人はいう。
しかし、それは、自然なことなのだろうか。

冬の寒さは、イヤなこと。しかし、桜の木には、冬の寒さが必要だ.冬の寒さ抜きにして、春にあの花を咲かせるこ
とできない。だから、桜に樹には、寒さは嫌なことではないはず。
多くの植物や動物にとって、冬は、辛いことだけど、「イヤなこと」ではないと思う。
むしろ、冬がないと、その生存が危ぶまれるものも、多いはず。

きっと、ユートピア(平和の国)では、「僕は悪くない。悪いのは君だ。君のせいでこんなことになってしまったん
だ。」という言葉もないに違いない。
ユートピアに生きる人々たちは、そんな感情は、どんな感情だろうと思うことかもしれない。
そんなとき、ユートピア(平和の国)は生まれているに違いない.

しかし、現実の地球は、そんな言葉に満ち溢れている。
そう生きることがあたかも自然のように。
しかし、それが、自然であるわけがない。
なぜなら、ちっとも、心が穏やかにならないもの。

ただただ、それが出来ないばかりに、いつまでも、ユートピアは出来はしない。
ただただ、世界中の人が、そう言わなくなるだけで、ユートピアが生まれるに違いないのに。
誰も、それを言わなくなる方法を知らなかった。
それさえ、知ることができれば。

ユートピア(平和の国)は生まれ出すのです。

イエス様は、言った.
「神の国は近づけり。」

右の頬と打たれても、心穏やかに生きることができる。そんな人がいるんだよ。
パリサイ人だからといって、その人を憎んだりせず、助けることできる人がいるんだよ。
あなたもそうなりなさい。

ユートピア(神の国)は近づけリ。

常識のように繰り返される言葉を乗り越えて。
毎日のように交わされる言葉を乗り越えて。

自分の心の王国を自らの意思で支配しない。
他の者(常識や価値観)に、人生の主導権を委ねてはいけません。
自らの主導権を奪回しなければなりません。ジャンヌダルクのように雄雄しく。
そして、苦しいこと、辛いこと、不利なことに、誠実に立ち向かうことが、人はできるはずなのだから。

ユートピア(神の国)は近づけリ。
あなたが、生きようと心に決めた時。
それは、あなたの人生が変わり始める時。
                                       by kimito (1/30/2002)


ユートピア (平和な国)の建設をめざして

私たち人間は、ユーとビアをこの手で作り出すことができるのだろうか。

20世紀は、19世紀とは、まったく、違う世界を生み出してきました。
電気、エンジン、そして、空を飛ぶ力も、百年前に登場し、20世紀は
19世紀の人には、とても創造のつかないような、文明社会を生み出し
ました。
それは、自然への挑戦であり、便利さの追求でした。
それを、人が求めた結果、その文明は生まれました。

私たちは、ユートピアを造り出すことより、経済的な成功や、政治的成功、
軍事的成功が欲しかった。
けれども、私たちが自らに問えば、明らかである。
戦争より、平和を求めている。
飢餓や貧困より、豊かな平等の社会を。
公害や環境ホルモン、放射能に曝されない社会を。

しかし、人は、家族にも、心打ち明けて生きることもままならない.
隣人の行動も、素直に、見守り、励ますことができない。
そんな自らを、どうすることもできない。

イエス様は、言うかもしれない。
すべての人は、宝の埋まった畑をもつ農夫のようだ。日々の生活に
追われ、遂に、自らの畑にある宝を見つけることができない。
また、人は、その心の内に、神の宮をもっているが、そこに至る道をしらない。
そして、また、同時に、欲望や、妬みが、人の人生を、牛耳っている。
まるで、欲望や恨みというものに、人生を操られているかのようだ。


お釈迦様は、言うかもしれない。
身や心、口を整えれば、悟りの道に至るだろう。八正道という道を
人は、歩むことができる。それは、自らの思い、行為を自らを、反省する力が
人は、持っているから他ならない。
されど、人の心は燃えている。安らぐことがない。

私たちは、ユートピアをつくることができるだろうか。
ユーとビアは、どのような力で作られるのだろうか。

自らの内に、隠された、人類が見失った、人間の力に、至ることが可能であろうか。
私たちは、誰も、ユートピアを作ろうといわなくなった。

経済をなんとかしろ、政治をなんとかしろ。医療改革だ。環境汚染だ。
二酸化炭素だ。温暖化だ。たいへんだ。このままじゃ、会社が倒産だ.
リストラだ。

私たちは、ユートピアを作ることを、諦めているのかもしれない。
人類の混沌に。社会の混沌に。
そして、なによりも、自分の混沌に。
秀才でもなく。天才もでもなく。金持ちでもなく。地位もなく。
そう、自分の決めたことさえ、やり遂げられず。
学校でも、両親にも誉められたこともない。
そんな、人間たちに、ユートピアなんて作れずはずもない。
会社に就職するのだって、日々の糧を得るのだって、ままならないというのに。

しかし、敢えて言うしかない。誰かが言うしかない。
ユートピアを作る力、誰にもある。
そう、昔、田舎娘に、フランスを救え といった時のように。
武器もなく、金もない彼に、インドを独立させてしまったように。

ユートピアをあなたの上に作りなさい。

あなたの内に、神の宮を見つけ、悪魔の誘いを払いのけるように。
そう、誰も、そのことを忘れてしまった。
アトランティスの記憶のように。遥か、太古の世界に。
しかし、地球が生まれた時から、調和ある世界、豊かな生命の星
多くの種類の動植物が生き、何十億年の歴史を育んできた地球。
その存在こそ、ユートピアの意思でもあった。
すべての人間が、そこで、豊かの暮らすことができる星である。

静かに、地球というシステムと、宇宙のリズムに、心、合わせるとき、
人間の内にある 神の宮の鐘が鳴り響くのかもしれない。

あなたの内にある、宝物に出会えるように。
それは、あなたの人生の目的、本当の願い。
そんな時が、訪れますように。

宝を隠している分厚い土地を取り除く方法はあるのだろうか。
人の心の中の神の宮を覆い隠す霧を晴らす道はあるのだろうか。

本当は、伝道を始めたペテロのように力強い人かもしれないのに、
恐怖に慄く自分を自分と思っているだけかもしれない。
怠惰やすぐ怒る心を、自分の個性だと諦めてしまっているのかもしれない。

そんな ”見せ掛けの個性”や”偽りの我”を見破る方法が確かにある。
地道な努力かもしれないが、確かにある。
現代は、それが、提示された時代でもある。
本当のあなたに出会うことを望むなら、きっと、出会える。
しかし、それは、大金持ちになるとか、事業に成功するとかとは、無縁の話である。
ペテロも、平凡な人生を送れたかもしれないが、伝道することによって、磔にされたし、
ガンジーも、暗殺された。
しかし、そう生きることが、その魂の願いなら、そう、歩むしかないのかもしれない。

ユートピアは、建設が、一人一人の願いで、あるならば、いばらの道も、十字架の道も
歩むしかない。


21世紀の最初のクリスマスに寄せて
イエス様 2002歳のお誕生日おめでとう.

                          by Kimito kurosawa
                          (12/10/2001)  


人生の不思議を求める人へ


私(現在46歳だが)は、中学3年生(15歳)の1月1日、小諸の実家で、テレビを何気なく見ていた。 それは、ジャンヌダルクをテーマした洋画だった。
なぜ、それをみようとおもったのかは、思い出せない。
午後の昼下がり、NHKの教育テレビだった。
たぶん、そのころのことだから、白黒だったに違いない。
実は、それをみるまで、ジャンヌダルクのことはよく知らなかった。
しかし、この映画が、私の人生を、決定的に変えた。
ほんとうにハンマーで殴られたくらいの衝撃が、訪れた。
その衝撃は、私の数十年の人生を揺るがしつづけている。

そのころ、人生は大海に浮かぶ木の葉のように、流されて生きていく、そんな印象があった私には、フランスの田舎娘が、国のために軍隊を引き連れて戦いにいくという奇想天外な話は、到底信じられないことであった。
しかし、なんと、その話は、社会科の教科書にのっていた歴史上の大事件であった。
中学3年生だったから、既に、その出来事について社会で習っていたかもしれないが、それまで、何も、気には留めていなかったのだと思う。
しかし、1月1日に見た、映画は、衝撃的だった。
信じがたい出来事だった。
ほんとうに、それは、あったのか?

中学を卒業して、地元の高校に通いながら、毎日考えた。図書館にいって、百科事典や歴史の本を調べた。それらに書かれている数ページの記述が、問題を解くわずかな手がかりだった。
教会に行って、聖書を勉強する機会もあった。
はじめて、教会で聞いた話は、モーゼの出エジプト記だった。その奇想天外の話も、ジャンヌダルク問題の前には、大事件には、思われなかった。


答えは、なかった。
答えは、あった。社会科の教科書の中にも、百科事典の中にも。
それは、本当にあった出来事なのだと。
しかし、私にとっての答えじゃない。
何が、私にとっての答えなのだろうか。


高校を卒業で、東京の短大で勉強するようになった。
答えの糸口は、短大1年生(19歳)の1月下旬の土曜日の午後、渋谷の道を歩いているときに訪れた。
ある基督教系(?)の布教グループに出くわした。
その強烈な思想は、私を飲み込もうとするブラックホールのような強烈さであった。
すべては、計画された秩序の中に、時は流れていく、そう聞きながら、私の唯物論的世界に、穴があき始めた。


そのとき、愛という言葉が、実態をもって、現れた。
草や木は、太陽の光、熱をもって、空気、大地の栄養をもって、成長することを促されている。
人間も赤ちゃんから成長することを促されてきた。
時には、いろいろあったにしろ、元気に大きくなれ といわれ、見守られて、生きてきたでは、ないか。
その大きくなれ という”そのこと” それが、”愛” という実態なのだと感じた。
愛には、実態のある存在する力なのだと。
そうか、ジャンヌダルクも、そのような、目には見えないかもしれないが、なにか、実在する力に導かれて生きたのかもしれない、そう思った。
それが、私が、探し、探し求めてきた、私の答えだった。四年の月日が流れていた。
ジャンヌダルクは、確かに存在し、あのように生きたのだ。


その基督教系(?)の強烈な思想は、私を飲み込み、引きずりこもうとしていた。
その事態を、たいへんとおもってくれた友だちが、私に救済の手を差し伸べてくれた。
その時のことを、後で、教えてくれた。 「あのときの黒沢君はまるで、ノイローゼみたいだった」と。


それから、友達の紹介で、GLAという会を紹介された。

そして、私は、本当に私が15歳の時、その存在を疑い、探し求めていた、”現代に生きるジャンヌダルク”に出会ってしまった。当時、私は20歳。その方は、19歳だった。

以来、20数年にわたりは、その会で、いろいろ学ぶ機会をえた。
多くのことを学んだ。人間の心について、教えていただいた。
そして、多くの奇跡を目の当たりにした。
人は、本来の人間として、生きていくという奇跡を多くの人が起こしている。
そして、その会の先生の行き様を、長きにわたり観る機会を得た。
人間が本来の行き方、可能性を徹底して追求した一途な行き方にただただ、頭がさがる思いだ。
ほんとうに、こんな人がいるのだろうか。
一人、一人の人間が、本当の生き方ができるなら、そのために、すべてを投げ打っているそんな感じなのだ。


そして、一人一人の中から出てきたものが、21世紀を作るエネルギーのすべてなのだ。
そんな途方もない、グランドチャレンジに、真正面から取り組んでいる。

若き日に、人生を揺すぶるような出来事に出会った人へ。
人生の不思議さを感じた人へ。
まわりの誰にも、その出来事を伝える術をもたず、
不思議の解決する糸口を持たない人へ。

私の出会った方の著作を紹介します。
きっと、なにか、大切な事を教えてくれると思います。


本の紹介



人生の不思議に出会った時

人生の不思議に出会った時
人は、答えを見つけ出さずにいられない。
その隠された宝を、どうしてもみつけだしたいという思いは、
押さえられない。
どうしても、それを求めずにいられない。
だから、人は、それを見つかるまで、探し求めるしかないのだ。

ある時は、宝は、そこにあったのかと思い、
ある時は,ちがう宝を探してしまうかもしれない。

人生の不思議にであった時、その答えをすぐ知ることはできない。
何年も、何年も、めぐり合うのにかかるかもしれない。
一生掛けても、出会えないかもしれない。
しかし、不思議に出会うことは不思議なことだ。。
ある人には、まったく関心を示さないことに、
ある人には、一生を左右する出来事になる。

不思議に出会うとは、不思議の出来事に出会うことではない。
なぜか、不思議と見せている出来事の答えを直感していることなのだ。
もしかすると、答えに遥か昔に、出会った答えを、思い出そうとする行為にも似ているかもしれない。
そうでなければ、不思議を感じる理由はないからだ。

不思議を感じたということは、その裏の隠された答えを知っているという、その直感にほかならない。

だから、人は,その不思議に出会う時、答えを求めずにはいられない。

さあ、人生の不思議の答えを探しにいこう。
きっと、いつか出会えるはずだから。



新しい生命力に


新世紀、明けましておめでとうございます。
生命力。それは、エントロピーという宇宙に流れる壮大な流れを突き進む力。それはあたかも、鮭が生まれた場所を求めて、川を遡る姿に似ている。
同時に、一つの生命からあふれ出た流れは、生命をもって、1000年、2000年の流れを引き起こし、壮大なる歴史、文明を創り出した力。それはあたか も、ナイルの流れのように、小さな小川からはりまり、その小さな流れは、多くの流れを巻き込んで、やがて大河になる川にも似ている.。

生命の力が、無数の生命の誕生を産み出し、無数の死を告げ、大河の流れのように連綿として引き継がれ、人類の理想の世界へ、調和の世界へ旅に突き進む.鮭が、ふるさとの香りをさぐりあてるように。
ICUも、そして、すべてのものが、新たな世紀に歩みを進めて生きます.新たな生命力を得て、希望の旗を掲げながら、未踏の未来を、かつて刻んだ歴史の続 きに、未知なる歴史を書き記す。その歴史を書きこむのは、一人ひとりの生命力であり、その力は明るい笑顔や明るい声によって、力を得る。人はその力をもっ て、歴史を産み出し、歴史を記憶する。

ここに豊かな生命力が湧き出だし、未来を切り開く智慧と勇気を、多くの人々が手に入れることができますように。生命力に託された希望を探り当てる能力をもって


21世紀になりました。
今、世界中で使われている世紀という考え方を、ひとりの人間の誕生を起点にしてしまいました。
かの人は、人類に歴史を変えるためにやってきたのでしょうか?。

そうです、きっと。
かの人は、人類の歴史を変えるためにやって来て、時代を変えてしまいました。
そして、かの人は、その死後も、弟子達がかの人の福音を広めるのを、励まし続けました。

どうやって、人類の歴史を変えたのでしょうか。
科学的大発見したわけでもなく、1冊の本を書いたのでもなく、大帝国を作ったわけでもない。

律法の支配するその地に、かの人は、律法を乗り越える”もの”があることを示しました。
かの人の生き様を伝えようとした本は、ある出来事を記しています。
姦淫を犯したものは、律法では、石打の刑になるはずでした。かの人は、その場にいて、”一度も罪を犯し
たことのないものが、彼女に石を投げなさい” と、回りの人に伝えます。そして、民衆には、ざわめきが
おこり、ひとり去り、二人去り、そして、みんなが去っていってしまいました.
律法が絶対の世界にあって、それを凌ぐ、”もの”のあることを伝えました.
その”もの”こそが、世界を変える力であり、世紀という時代の流れを産み出す力になりました。そして、
そこに生きた人々の人生を変えました.


また、ある人は、カースト制度が絶対の世界にあって、それを凌ぐ、”もの”があることを伝えて、世界を
変えていきました。
その”もの”が、世界を変える力になりました。そこに生きた人々の人生を変えました。


武力が、絶対の世界にあって、非暴力が、それを凌ぐ”もの”であること伝えた人もいました。その”も
の”が、世界を、そこに住む人達の人生を変えました。

現在の絶対はなんでしょうか。
この世が全てという世界。
経済がすべてにまさるという世界。

しかし、それを凌ぐ、”もの”はないのでしょうか。
人間は、この世界にあって、一番弱い葦のようだと喝破した人もいました。 しかし、それは考える葦でも
あると付け加えています。

人間の心の中にある 不思議なもの それこそが、自由意思。それは、愛であり、慈悲であり、欲望であ
り、怒りであったりします。しかし、その自由意思の表れを、言葉にすることができるという事実はどうい
うことでしょう。

人間は、自由意思を判別し、選択できる”意思持つ”存在です。その意思こそが、人生を、世界をつくり、
変えていく力をもっています。それは、一人一人の人間が持つ力です。

自由意思は、飛行機で言えば、エンジンのようです。好きなところにいく力を持っています。しかし、その
エンジンをコントロールして目的に行くためには、エンジンの出力、方向舵、風の向き、地図、機体の傾き
などを知らなくてはなりません。

人間の自由意思の表れを制御することを、知ることが出来るなら、新しい時代が、ここから、開かれていく
に違いありません。自由意思の表れを、ひとつ、ひとつ、捕まえて、選別することができるなら、新しい、
素晴らしい世界を作り上げていくことができるに違いありません.

21世紀は新しい世紀として、その歴史を切り開いているのです。



君を手ぶらで帰すわけにはいかない。

NHK project x
第41回 2月20日放送
2回シリーズ (後編)
「極寒・南極越冬隊の奇跡」
~南極観測・11人の男たち~

NHK Project X をみた。初めての南極越冬の観測とおこなったことがテーマだった。隊長の西堀氏が、隊員がテーマを決めて観測をおこなった。その一人のオーロラ観測を行っ ていた隊員が、観測機器を火事で失ったとき、西堀隊長は、君を手ぶらで日本に帰すわけには行かないと、ほつりと言って、手作りの観測機器を隊員に、あげた と言う.
この観測成果を踏まえて彼は、オーロラ研究の第一人者となったという。

そして、思った。南極に越冬する 迎えは、1年経たなければ来れない現実。そんな、生と死をかけた冒険。

人は、この世に生まれて来るとき、大いなる決意の元に生まれて来るという。人生という冒険の始まりだ。
生まれて来たからには、手ぶらで帰すわけにはいかない。それは、全ての生命を見守る、神の思いではないかと、ふと思った.

そして、聖書の中でも、似たような記述があったように思った.
主人は旅に出ている間に、財産を3人の預けていくのだが、またと無いチャンスを生かすことなく、財産を地中に埋めてしまう一人の召使を、残念がるのだが、可能性を無為に過ごすことを残念だと書いている。

せっかく、生まれてきたのだから、人は、手ぶらであの世に帰すわけには行かない.無限の宝の山に生まれたのだから。
しかし、その宝は、一人、一人が見つけなければならない。

南極も、ただの寒い大地だといえば、そうかも知れないが、科学者の目をもってすれば、無限の宝の山で、きちんと観測すれば、偉大な科学者になっていけるということなのだ。 


21世紀を創る.
21世紀をつくる力は、人の心に潜んでいる。それは、物理エネルギーを取り出すことに明け暮れた20世紀から意味のエネルギー(エネルギーという言葉が、適当ではないかもしれないが)と交流する時代が来るに違いない.
石油には石油文明(電気、車、プラスチック、衣類。。。)力が秘められており、それを見つけて文明を支えてきた。
しかし、もう一つの意味があるに違いない.それは、遺伝子の解明、成分の解明といったものではない、何かとの出会いである。
地球の声を聞き、樹木の生命力を感じ、生きる意味を感じること。
そのが、どんなに人間に巨大なエネルギーを与えることになるのだろう。
存在するものに名前を付けて、分類、分析するのではない、存在の輝きを知ること。
それに意味を感じることが、人生にどんなにすごいエネルギーを与えることになるだろう。

経済や、物理パワーは、大きな影響を確かに与える。しかし、それを超えて、出会う世紀になれることを。

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