2013年11月29日金曜日

神の国は近づけり

      われらは、どこに住んでいるのか。
      われらの内に、何がすんでいるのか。
      われらの人生の時を、食いつぶしているものは、何ものぞ。
      われらの人生を、われらの元に取り戻せ。

神の国は近づけリ。

人類は、かつて、この言葉を何度も聞いた。
そして、最後の審判が訪れるのだとも聞いた。
また、この世は末法の世だとも聞いた。

長い間、空を飛ぶことも出来なかった人間は、最初の12秒の飛行の後
瞬く間に、空を支配し、月までも到達した。
岩を砕くダイナマイトが、発明されると瞬く間に、たくさんの爆発物が生まれた。
物と持ち上げるシャベルカーやブルトーザーが山を砕き、谷を埋め
この世のすべてのものを支配した。

それを人は科学の力と言った。
科学の力があれば、快適な生活ができるはずだと、
多くの人が信じていた。

科学の力を持って、人類は、神の国ごとき世界をつくりあげることができるようになったのだろうか。
伝説は伝えている。
天に届くほどの塔を人は造った。
しかし、神はそれを打ち砕き、人々の言葉をばらばらにした、と。


神の国は近づけリ。

今、確かにそのように呼びかける声が聞こえる。
いや、今も、昔も神の国は、”そこ”にあった。
けれども、誰も、その存在を見ようとしなかった。

今も、昔も、電波はあった。
しかし、それを検知に、利用することが無ければ、電波は存在は人に知られることもない。
ニュートリノという”もの”の存在を検出するものは、地中深くに埋められた水槽しか
その存在をすることは出来ない。しかし、宇宙の初めより、ニュートリノは存在した。
私たちの知らない、または、証明できないたくさんの”もの”がこの宇宙には溢れている。
それを、人類はまだ、知る術を知らないだけなのだ。

なぜ、人は、本を書くのだろうか。
誰も見たこともない、箒に乗ってボールを追いけるゲームが、なぜ、小説の中では生き生きと
存在するのだろうか。そこには、紙とインクしかないと言うのに。
だれも、見たこともない主人公の少年の活躍を、心躍りながら、読むのであろうか。
その主人公が実在していないと知っていてもである。

英語を知らない子供がその原作を手にとって見ても、なんの意味もないただの”もの”にすぎない。
秤やレントゲン、MRIというべき、先端科学の機械をもってきても、そこに、主人公の冒険を
みつけだすことは出来ない。
作者のどこに、その世界があったのだろうか。
読者のどこに、その世界はあるのだろうか。

”そこ”には、確かに、リアルな世界が存在し、感じているのだ。
しかし、誰も、その世界を、手にとることは出来ない。

映画監督の黒澤明が映画をつくる時、なんどもなんどもシナリオを作るために、討議し、
考えて考えて、造ったという。
そのシナリオは、彼の頭の中にある、”なにか”を求めて求めて、書き直された。
しかし、その”なにか”とは、それほどまでに、”実体”のある何かであったのだ。

人類の歴史の中で、”民主主義”ということばが生まれたその瞬間、いったい何が
起こっただろうか。
人類の歴史の大変革が生まれたに違いない。
江戸という時代から明治という時代になったその瞬間、時はただ連続して流れて行ったに
過ぎないが、時代は、変革というべきうねりを持って、変わっていった。
”民主主義”それは、ただの言葉にすぎない。それはただの概念にすぎない。
しかし、たくさんの王様はいなくなり、多くに国で選挙をすることが一般的になった。
この”民主主義”という言葉に、いったい、どのような”世界”が孕まれていたのだろうか。
なぜ、それほどまでに世界を変える力になったのだろうか?

ここで、あえて、もう一度、かの言葉をここに呼び戻そう。

神の国は近づけリ。

それは、どこにあるのかと問う声もする。
それでは、遭えて、その問いに、問わなければならない。
箒に乗って、ゲームをする少年はどこにいるのか。
民主主義は、どのように存在するのか。
音楽や文学はどこに存在するのか。

今後、民主主義に変わる言葉が、登場するに違いない。
それは、新しい世界のあり方を導く言葉になるに違いない。
その時、神の国はそこにある。
しかし、いまも神の国はそこにある。

なぜなら、人は、それを感じる力があるからである。
箒に乗った少年の世界を、映し出す”心の世界”がそこにはある。
そこには、なんでも映し出すことが出来る。
毎日ニュースで報じられる凶悪事件、政治の混乱、国際的なトラブル
戦争、拉致、原子爆弾、年金、医療の問題。
日々発生するたくさんの出来事を、心は受け止め、感じている。
もし、このこころの世界に、正しい番人がいたら、きっと、世界の混乱は
瞬く間に、無くなっていくに違いない。

しかし、今は、”そこ”は、扉も無く、放任された、廃屋のようである。
暴力や嫉妬、傲慢、恨みが住み着いても、誰も、追い出すすべも知らず
僻み、悪口、愚痴を言っても、後悔することも無い。
それが、こころの自由、個人の自由として放置された。

「おーい、ご主人様は、どこかにいるんですか。」
大声で呼ぶと、どこからとも無く、現れて、
「ここに住んでいるのは、あなたですか」と問うと
「そうです」と答えるが
「いったい、この荒れ放題の家はどうしたのですか」と問うと
「暴力、僻み、悪口、恨みたちに乗っ取られてしまって、自分ではどうすることも出来なんです」

それをもって、神の国に近づくことは出来ない。
「絶対、そんなところに近づくんじゃないぞ。」
「近づいたらただじゃおかないぞ」
「そんなところに近づくと、おめえ、えらい苦労することになるんだぞ。」
「もし、近づくことを止めたら、君を世界の王にしてあげよう。」
脅し、甘言等、巧みな言葉で、引き止めるに違いない。
かつて、パピラの木下で、悟りを求めた人に訪れたように。
かつて、砂漠を40日間彷徨った人に訪れたように。

それでも、言おう。

神の国は近づけリ。

内なる廃墟に確かな住人として住むことを決意したものには、神の国は訪れるのである。
多くの居候をたちを追い出す術を身に付けたものには、神の国は訪れるのである。

聖書を読んで、イエス様の生き方に感動するなら、神の国は近づくのである。
仏典を読んで、お釈迦様の生き方を感じるとる人は、神の国は近づくのである。
しかし、暴力、愚痴、僻み、傲慢、怠惰の住む廃墟に素手で突き進むのでは、
瞬く間に罠に落ち、とらわれの身になってしまう。
それほどまでに、廃墟の住人は、百戦錬磨のつわものばかりである。
われらも、武器を持たねばならない。
武器としては、十字架や数珠では頼りないかもしれない。
それは、傲慢を見破る法力である。
それは、怠惰を見破る法力である。
それは、愚痴を見破る法力である。
それは、108の煩悩を見破る法力である。

それは、小学生の頃、一生懸命に漢字を覚えたように、
それは、九九を一生懸命に覚えたように
傲慢を見破る法力を覚えなければならない。
怠惰を見破る法力を覚えなければならない。
愚痴を見破る法力を覚えなければならない。
108の煩悩を見破る法力を覚えなければならない。

その法力を持って、廃墟の住人の繰り出す、荒業を見破らなければならない。
パピラの木の下で見破ったように。
砂漠の地で、見破ったように。

その法力こそ、神の国に近づく武器である。
そして、遭えて、言おう。

神の国は近づけリ。
心の廃墟から、108の居候が心静かな、良き友となリ、
本来、住むべき人が生活を始める時
そこに神の国は訪れるのである。

しかし、
108の煩悩という”つわもの”は、あなた一人の内にいるのではなく、すべての人の内にいて
時として、徒党を組み、時にして、裏取引をし、人類を陥れるべき、力をなしている。
それは、多くの集まりをなって、圧倒的圧力として、個人に圧し掛かっているのである。
それは、時として、科学の確信を逆手にとって、あなたに攻め込んでくるのである。
それは、時として、聖書や仏典、コーランの言葉を掲げて押し寄せるのである。
それは、時として、憲法、世界人権宣言、国連憲章の精神を武器に、思考を停止させようとするのである。
時に同情で、時に誘惑で、時に脅しで
108の煩悩も、108の法力をもつ 百戦錬磨のつわものである。
あなたが怒り出すとき、既に、この法力のとりこになってしまったのである。
もう、何もしたくないと内に閉じこもる時、この法力の罠にかかっているのである。
私は、悪くない、絶対に悪くないと、言っているとき、108の煩悩は、してやったりと思っているのである。

われらの人生の応援団はまるで、108の煩悩のようである。
そして、いつもしゃしゃりでてきて、ご主人様になにもさせまいとしているのである。
ご主人様は、赤ちゃんの時にそうだったように、寝ていてください。
私達が、全部しますから、安心して寝ていてください。
判断を仰ぐことはいたしません。
怒りには、怒りで応えておきましたから。
誘惑がきたので、ちゃんと乗っておきましたから。
全部全部ちゃんと私達だけでやっておきましたら、ご主人様は、ゆっくりお休みください。


だからこそ、
私たちにも、法力が必要なのである。
その最初の法力は”こころをこころでつかまえる”訓練から始まると言われている。
「こころをこころで、つかまえる」 ことが出来ますか。
108の煩悩の荒業を見破る、最初の一歩である。

(by kimito 12/7/2003
イラクの地に散った二人の日本人外交官の葬儀の知らせを聞きながら)


PS: 黒澤は、どこに住んでいるのだろうか。
    黒澤も廃墟に住む住人なのである。
    それは、黒澤に声をかけてみればわかることなのである。
    この声に応えて顔を出すのは、いったい、黒澤の真我であろうか?
    善我であろうか?

    ガンジーのように雄雄しく、気高く生きているのであろうか。
    イエス様のように、何も求めず生きているのであろうか。
    お釈迦様のように、執着から離れているのであろうか。

    黒澤の住処から顔をだす、様々な煩悩。
    黒澤の真我や善我は、奥に隠れて、なかなかその出番がない。
    むしろ、108の煩悩がしゃしゃり出て、次々と、要件をこなしていく。
    この要件をこなすということは、黒澤の人生を使っているということなのである。
    私の人生が、私の煩悩に食われていることなのである。

    この煩悩には、大きく四つに区分されるという。
    のんびり、なにもしたがらない、のほほんと幸せ気分ですごしているのが、
    黒澤のタイプである。
    世界は平和で、乱されたくない。そんな気分の煩悩が、ほんとうに巧みに
    黒澤の人生の時を、ムシャムシャと食べているのである。

    21世紀になって、黒澤公人の真我は、人類のために何かしたい、できることを
    なしたいと、心の中から叫んでいるに違いない。
    しかし、煩悩の巧みな慰め、脅しによって、真我が自由に生きることができない。

    煩悩の巧みさは、その善我、真我の存在をその人に知らしめない、巧妙さを
    もっていることなのだ。

    されど、私の真我は、叫ばなければならない。

    煩悩の罠を見破り
    自らの善我を励まし
    自らの真我を信じ

    神の国は近づけリ。

    しかし、神は言われる。
    廃墟の中の煩悩を打ち静め
    あなたの心に神の光がさんさんと輝く 神の宮にするのは、
    一人一人の責任であると。
    そのための力を、私は、与えているのだ。

    そして、求めるならば、与えよう。
    生きる勇気を。
    生きる力を。

    かつて、農家に生まれた少女が、イギリスに立ち向う勇気を与えたように。
    かつて、糸車一つもって、イギリスに立ち向ったように。
    
    さあ。伝えに行くがよい。
 
    神の国は近づけリ。と。

    かつて、ローマから帰ろうとするペテロに、主がいわれたように。
         あなたが、行かないのなら、私が行こう。

    かつて、日本からの招きを聞いて、和上が言われたように。
         弟子達がいかないのなら、私が行こう。

    黒澤が戸惑う理由は、なんなのか。
    なにを恐れているのであろうか。

    煩悩の巧みな罠を見破らなければならない。

    福音を伝えに行こう。
    誰の中にも、真我と善我が存在することを。
    その確信を、忘れさせたものの正体を暴かなければならない。

    お釈迦様が悟りに至ろうとするときも
    イエス様が、荒野を彷徨い、すべての誘惑を捨て去ろうとしたときも
    人間に潜む煩悩は、素直に出て行くわけではない。

    しかし、神への確信が、手がかりである。

    神の光が、心に差込むとき、廃墟のように、無色、じめじめ感は、一掃され、
    真我 住まう 神の宮が、そこに輝くのである。

    そして、私が、言わなければならないこと。

    誰の中にも真我が存在し、
    その真我に至るためには、善我を育まなければならない。
    善我を育むためには、煩悩の罠を見破らなければならない。
    煩悩は、ほとんど、自我と同化して、その正体を見破ることは難しい。
    しかし、煩悩を見破る法力は存在し、整備されている。
    煩悩の正体が、徐々に明らかにされている。
    いままで、ほとんど、見分ける方法も無かったのに、
    108の煩悩の正体が、明らかにされてきている。

    それゆえに、神の国を、わがこころの中に打ち立てることも不可能ではない
    時代になった。

    だから、
    神の国は近づけリ と多くの人に伝えなければならない。

    (by kimito 12/8/2003 日本の未来を信じて、アメリカとの戦争に突入した日によせて
                  
     かつて、日本人は、アメリカと戦って負けた。
     アメリカは、原子爆弾を2つ、日本に落とした。
     人類の歴史の中で、戦争で使われた 2つの原子爆弾。
     そのことに、とてもショックを受けたアメリカ人がいた。
     その名は、ICUの正門から続く、桜並木に名を留めている。
     それは、日本がアメリカと戦った事実の証。
     それは、平和を希求することが、人類の本来の願いであることの証。
 
     あなたの人生は、あなたの真我ではない、何かにぶん取られている。
     あなたの真我は、人生の時間を、真我に取り戻す時が来る事を待っている.
     あなたが、自分の人生を、真我に取り戻す時、人生は、光輝きだす。
     それは、神と呼応するこころなのだから。)

     神の力とは、真我生きるもの、勇気を与える力である。
     

PS2: 煩悩とはなにか という問題がのこりますね。
   こころの実態が、明確に解明されないかぎり、煩悩を論じる足場がないというのが、
   現実でしょうね。
   こころは、なぜ、意思をもつのか (この意思とはなにかという問題にも突き当たりますが。)
   こころが意思をもつならば、こころの分身(サーバント)的な煩悩も意思を持つと考えても
   いいのかもしれません。(黒澤にとても、説明できることがらではありませんが。)

   赤ちゃんは、まだ、自分の意志などを確立できませんので、生命維持装置的な役割として
   本能ともいうべき機能が働きます。
   それが、煩悩に変わるのかは、よく判りませんが、成長する過程で、様々な刺激をうけます。
   この様々な刺激によって、こころから、煩悩が生じるかもしれません。
   この刺激自体が、回りの大人の煩悩から発せられているので、その刺激を受けた ”こころ”は、
   煩悩が成長していき、真我、善我にかわる 地位を確立していくことになるのでしょうか。

   しかし、それだけでは、というわけで、きっと、教育、しつけなどという問題と通して、真我、善我
   を育てるという試みがされているのかもしれません。

   しかし、社会は、煩悩的刺激にあふれているので、通常、真我、善我が、自己確立していくのは、
   現実問題としては、なかなか難しい。
   しかも、現代社会も、人間の水準と、あまり、要求していない。むしろ、煩悩にながされ、あまり、
   正しい(この言葉も問題あり)生き方、真我、善我のそった生き方をすることを、あまり、好まれない
   ような社会風土である。
   
   その意味で、誰も、真我、善我 を真剣に育てることに取り組まない風潮にある。
   しかし、自我の成長とともに、煩悩(サーバント)から主権の奪還をする必要がある。

   この奪還は、キリスト教的には、洗礼 というものにあたるのだろうか。新しき名前を得て
   自らの人生を行き直す。それは、いままでの 社会や世間から流されていた自分から
   自らの意思で生きることを決意する瞬間である。

   この奪還は、古代仏教でも、戒名という形で行われたのだろうか。お釈迦さまの弟子になるとお釈迦様
   から、名前をいただき、新しい自分を生き始めるのである。
   
   この奪還は、人生の中で、思春期などと時期をへて、一人立ちするときに、起るべき時期なので
   あろう。
   煩悩的(両親、社会、地域)に頼りきりの人生から自らの人生への切替がおこるべき時期である
   のだろう。

   しかし、社会人になる、大学生になるといった 外側からの切替は、否応なしにできても、
   両親、社会的通念、地域からの切り離しを決して容易ではない。
   一生涯、親の思いから逃れられないのが、現実であるといっても過言ではない。
   
   女は結婚しなければならい。
   金がなければ、生きている価値はない。
   一旗あげて、見返してやる。
   一番でなければ価値が無い。
   男は人に使われてならない。人を使う人間になれ。
   女のでしゃばりは、不幸の原因。男を立てなければならない。
   そんなに一生懸命なにかをなっても、なんの意味もない。適当に楽しく生きるほうが、いい。
   ぼくには、そんなことは絶対できない。不可能さ。
   おれは、こんなところで、汲々として生きる人間じゃない。いつかでかいことをしてやる。
   平凡が一番。目立っちゃだめ。
   我が家は、特別な家系なのよ。世が世ならば。
   この恨みは絶対晴らしてやる。
   真我に生きているやつなんか、どこにもいないじゃないか。
   誘惑勝てるやつなんかいない。
   怒らせてみると、その人の本性が透けて見えるさ.
   寂しさに耐えられない。なんとかして。   

   こう書いてみると、映画や小説のテーマでさえあるとも思えてくる。
   そして、この命題と戦う主人公の物語が、一大 映画や小説のストリーになってくるほどの
   人生の大事業でもある。

   赤ちゃんのうちに、真我、善我が、自らの人生を生き抜くことはできない現実を考えると
   一度、すべてを、回りに委ねて、生きなければならないがゆえに、本当の人生を奪回する
   ための時が必要となる。

   この奪回には、強烈なエネルギーを必要とする。
   簡単に、できない。
   準備と訓練をする場が必要だ。
   そんな場が、教育という制度を通して生まれると、神の国は、実現するに違いない。
   真我、善我を、自らが、自らの意思によって、育む 教育の出現を、願う。

          (by kimito 12/11/2003 Unicef 創立記念日によせて。)

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